読書をしよう
私は中学の頃何をしていたのだろう。ふとそんな思いが脳裏を過ぎった。勿論、思い出そうとすればそれなりに思い出すことはできる。例えばバドミントン部に所属していたのだ。唯一運動部に所属していた輝かしい過去である。ところがそれ以外となるとどうも判然としない部分が多い。どうでもいい話は次々に思い出せるのだが、「これが我が中学時代だ」というものに思い当たらない。
思えば中学の3年間は考えるということに目覚めた期間であった。中学の先生たちは誰も彼も教科書の枠を越えて様々なことを教え、考えさせてくれた。特に国語教師の印象が残っている。その人は「教科書なんかつまらないから」ということでクラスに選ばせ、夏目漱石の「坊っちゃん」を題材に授業をしてくれた。
考える事を学んだ多くの人間は過去の人々がどう考えどう悩みどう表現したかを学ぼうとする。これがいわゆる文学少年への道のりなのだろう。
思えば中学の3年間は考えるということに目覚めた期間であった。中学の先生たちは誰も彼も教科書の枠を越えて様々なことを教え、考えさせてくれた。特に国語教師の印象が残っている。その人は「教科書なんかつまらないから」ということでクラスに選ばせ、夏目漱石の「坊っちゃん」を題材に授業をしてくれた。
考える事を学んだ多くの人間は過去の人々がどう考えどう悩みどう表現したかを学ぼうとする。これがいわゆる文学少年への道のりなのだろう。
ところが私はその道へは進まなかったのである。人の在り方であるとか世界がどうであるとか高尚なテーマを持ち出してどうこうと考えたがるくせに、其れに対する資料ときたら己の思考と経験、ただそれだけなのだった。今から思えば今までの人生で一番真面目な時期だったと思う。この頃に様々な本を読んでおけばよかったと思うこともしばしばあった。そうすればもう少し世界は広がっていたかもしれないのに。
そんな事を思うからかどうかは分からないが、今頃になってパームにいろんな文章を入れて読み耽る日々を送っているのである。何かを読むという行為を欲しているという点では活字中毒の気があるのかもしれないが、読んでいるのはほとんどがウェブ上の雑文である。いかがなものかと我ながら思ったので、何とはなしに青空文庫のパーム版、青空文庫 パーム本の部屋に行ってみたのだ。そこで作家リストをざざっと眺め、やれ芥川だ太宰だ宮沢だと「よく耳にするんだけどちゃんと読んだかといわれると心許ない作家」たちを漁りだしたのである。
そんな訳で今日は煙草を1箱費やしながら太宰治の「誰」を読んだのである。これで私もダザイスト(c)エレメンタルノートへの第一歩を記したのである。
が、私はこの「誰」を読んで愕然とした。
「これではまるっきり雑文ではないか。」
どうにもこうにも、この太宰治の「誰」というものはその書きくちや物語の展開、落としどころや思考のあり方などがまるっきり雑文なのだ。日頃慣れ親しんでいる雑文館やらそれ聞かやらという雑文サイトを読んでいるのと何ら変わることのない印象を抱くだけなのだった。
なにせ、「サタンというには程遠いほどみみっちいのでサタンではあるまい」という考え方なのだ。悪鬼を見れば「だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。」というのである。挙句の果てには「私は、サタンではなかった。悪鬼でもなかった。馬鹿であった。バカというものであった。」とくるのだ。この展開なぞ雑文界の様式美といってもいいほどだ。
というわけで、私の中では今のところ「太宰治は優れた雑文書き」なのであった。こんな事ならもっと早く読んでおくのだった。そういう些か間違った思いを抱く私なのだった。うむ。やはり今の私はどうにも不真面目なようである。ま、それもまあよかろう。私もしがない雑文書きの端くれ。雑文書きたる者、やはり基本は馬鹿なのであった。
そんな事を思うからかどうかは分からないが、今頃になってパームにいろんな文章を入れて読み耽る日々を送っているのである。何かを読むという行為を欲しているという点では活字中毒の気があるのかもしれないが、読んでいるのはほとんどがウェブ上の雑文である。いかがなものかと我ながら思ったので、何とはなしに青空文庫のパーム版、青空文庫 パーム本の部屋に行ってみたのだ。そこで作家リストをざざっと眺め、やれ芥川だ太宰だ宮沢だと「よく耳にするんだけどちゃんと読んだかといわれると心許ない作家」たちを漁りだしたのである。
そんな訳で今日は煙草を1箱費やしながら太宰治の「誰」を読んだのである。これで私もダザイスト(c)エレメンタルノートへの第一歩を記したのである。
が、私はこの「誰」を読んで愕然とした。
「これではまるっきり雑文ではないか。」
どうにもこうにも、この太宰治の「誰」というものはその書きくちや物語の展開、落としどころや思考のあり方などがまるっきり雑文なのだ。日頃慣れ親しんでいる雑文館やらそれ聞かやらという雑文サイトを読んでいるのと何ら変わることのない印象を抱くだけなのだった。
なにせ、「サタンというには程遠いほどみみっちいのでサタンではあるまい」という考え方なのだ。悪鬼を見れば「だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。」というのである。挙句の果てには「私は、サタンではなかった。悪鬼でもなかった。馬鹿であった。バカというものであった。」とくるのだ。この展開なぞ雑文界の様式美といってもいいほどだ。
というわけで、私の中では今のところ「太宰治は優れた雑文書き」なのであった。こんな事ならもっと早く読んでおくのだった。そういう些か間違った思いを抱く私なのだった。うむ。やはり今の私はどうにも不真面目なようである。ま、それもまあよかろう。私もしがない雑文書きの端くれ。雑文書きたる者、やはり基本は馬鹿なのであった。
2004/08/14 Sat 21:34 | - | -