Top | Biglobe Top | Wyvern | PhotoScrap | Visor | SiteMap

■109 哲学といふもの 2006/07/02

世の中には哲学という学問が存在する。

哲学というのは実に不幸な学問だ。哲学という学問には多くの他の学問の知識が必要になる。数学、物理学、化学、生物学、社会学、心理学、文学、音楽、宗教学、神学・・・

ただ多くを知ればいいというものでもない。ひとつの事象に対してあるときは理論的に思考を展開する能力、またあるときは突拍子もない思いつきを結びつける能力、そうかと思えば多くの学問の観点から見直す能力も必要になる。

そうやって苦難の末にたどり着く位置。それは結局のところ人が生きて死ぬまでに全く必要のない事であったりすることがままありえるのだ。むしろ元々のスタート地点からして全く実用性とかけ離れているのが哲学だ。

例えば「人は何故死ぬのか」と考え始めるとする。この時点でいくつかの学問では終わってしまっている。生物学的に見れば人(というか全ての生き物)は必ず死ぬ。それはもはや前提条件といっても過言ではない。

そういう悲しいスタート地点から、何とか出発するとする。スタートしてからも迷いっぱなしだ。例えば「人の死とはそもそもなんであるのだろう」とか、「むしろ生とはなんなのか」とか「他の生物における死と人の死は同じなのか違うのか」とか「己にとって死とはなんなのか」とか「宇宙の生死から考えたら人の死なんてハナクソみたいなもんだよな」とか「ミジンコが生きてるのにハナクソが生きてないなんておかしくね?」とか「人って死ぬ瞬間に数グラム軽くなるんだよな」とか「それってエネルギー換算したらすごくね?」とか「寝てる子供を負ぶってるとマジで重いのはなんか関係あんのか?」とか。

こうやって並べてみると、実に無節操でどうでもいいことを考える。ミジンコやハナクソが人の生死に何の関係があるのか。我ながら問いただしたい。しかし問いただそうと思った瞬間「カオス理論」だとか「エントロピー」だとかどうでもいいことが脳裏を過ぎるので、集中するためには敢えて考えない場合もある。もちろんそのまま流されて全然違うところに帰着することも、ままある。

そして、そうまでして得た結論が「ま、いろいろ考えてもどうせ死ぬしな」というところで終わったりする。そういう虚無感や悲壮感すら窺える学問が哲学なのだ。こんなもんを後世に残した愚かなギリシャ人たちはその罪を認めるべきである。まあ既に皆々様お亡くなりであるからしてその罪はもはや祓われたも同然であるのだが、とはいえどもその駄目人間の系譜は脈々と繋がったままなのである。思えば因果なものだ。きっとどこかで哲学が潰えた瞬間もあったのだろう。そんなものにうつつを抜かすほど余裕のない時代なんて世界に一度や二度あったはずだ。だのにそういった駄目人間たちは、こうやって21世紀になってしまったにもかかわらずこんな辺境の島国にもいたりする。まったくもって救いがたい。なんとすれば哲学者というのはロクデナシの別称であるのだ。いっこも使えないことばっかり考えている連中である。それでメシを食うことなど無理に決まっている。そういう理屈に気づくにもかかわらず、それをやめられないのだ。

哲学者とはこのように如何ともしがたい連中なのである。貴方は今、己が哲学者でないことに感謝すべきである。そしてこんなことに費やした時間に気づき、愕然とするのも駄目人間の在り方なのである。やれやれ。



メインページに戻る
tatuya@holythunderforce.com
Written by tatuya,since 1998-
powered by araya ver.0.91